Biologicalな思考を楽しむ

アカデミアと社会の境界線を再認したい

ワインと科学のおいしい関係 第一回

日本の有名なことわざに以下のようなものがある

                                                  風が吹くと桶屋が儲かる

                     出典: 無跡散人著  世間学者気質 巻三 (1768)

その意味は

1. 文字通り一見関係なさそうなところに影響が出ること

2. 無理くり論証したこじつけ

などの意味で使われることもあるようです(諸説あり)。

 

さて、いわゆるお噺の類と思われがちですが、よく考えてみると世の中『風が吹くと桶屋が儲かる(風桶現象と略します)』ことばかりではないでしょうか? 例えば『牛がゲップすると地球温暖化になる』など、実は身の回りにはたくさんの風桶現象が起きているように思います。実は風桶現象の応用範囲は非常に大きく、「風桶現象が生物学の発展に大きく貢献している」という風桶現象の風桶現象(?)が現実に知られています。

 

さて、今回の目標は全3回のシリーズを通じて分子としてのタンパク質を理解することいたします。では、本稿の舞台は1800年代のフランスで起きた風桶現象から始めましょう。

 

フランスといえば、ワインの国という人もいるかもしれません。ぶどう作りに適した土地柄で昔からワインと芸術、ワインと文化醸成と色々と紐解くと面白い切り口がありそうです。さて、今回はワインと生物学ということで下の切り口から迫ってみましょう。

 

            ぶどうを絞るとワインができる

 

1800年代この現象は(日本の御伽草子の時期と重なっているのも相まって)フランス版風桶現象と考えられていたことでしょう。この現象は今では醗酵と呼ばれる現象であり、現在ではブドウ糖から二酸化炭素とアルコールができる現象(アルコール発酵)であることが知られています。日本でも、お米からどぶろくができる、や大豆と藁から納豆ができる風桶現象が知られていますが、その当時フランスではこの風桶現象がどうして起きているのか、その理由を科学的に解明しようという気運が高まっていました。

生物の最小単位「細胞」について考えてみる

                               人間は60兆個の細胞によって構成されている

 

生物界隈では有名なフレーズですが、本当に60兆個なのかな?と疑いの目をかける猜疑心もアカデミアには必要なのかもしれません。この60兆という数字の妥当性は他の記事で解説するとして、この記事では生物(学)の基本単位「細胞」に着目して記事を書いて見たいと思います*。

 

今回の目標は前回の「学問」と「勉強」の違いというやや概念的な記事を「細胞」をキーワードに具体的に捉えること、になります。前回の記事はこちら。

 

 

*一言で「細胞」と表現しても、例えばヒトの細胞(真核細胞)と大腸菌(原核細胞)には大きな差があるだけでなく、大学では専門的な研究分野の数だけ話の切り口があると考えられます。そこで、詳細を別の記事に譲るとして、本稿ではヒト細胞だけを用いて目標達成に迫ります

 

細胞と聞くと、真ん中に角があってなどの細胞の姿をなんとなく頭に思い浮かべることができると思います(例えば、Wikipediaや細胞の画像をwebで検索してみてください)おおよそ一般的なヒトの細胞には以下の5つの構成要素からなっていることがわかります(詳細は別記事で)。

 

1.  核

2. 細胞小器官

(膜に囲まれた構造体で、ミトコンドリアや小胞体、リソソームなどがある)

3.  細胞骨格

(骨のように硬いものがあるわけでないが、細胞は水風船のようにパンパンに膨らんでいる訳ではなく、ファイバー構造のタンパク質によって形と機能が保たれている)

4. 細胞質

(細胞の何も書かれていない部分だが、タンパク質や脂質、リボソームなどがぎっしりと詰まっている。さながら満員電車のよう。)

5. 細胞膜

 

大学では、免疫染色と呼ばれる手法で可視化して細胞を蛍光顕微鏡で観察することや、電子顕微鏡で観察すると、実際に1~5の構成因子を観察することができます。さて、重要なことは、このおおよそ事実と言えることはWikipediaや教科書に「さも当たり前かのように記載されている」ので、ここでは実際の歴史の流れを汲んで書き直してみましょう。

 

例えば、自分が世界で初めて実用的な顕微鏡を作った研究者だとしたら、

 

     幸運か偶然か今でいう「細胞」のような何かを初めて発見する

 

ことができる...かもしれません。そして、詳細な観察を続けると、同じような四角い形をした構造が連続していることがわかった。そこで生物の最小単位で機能する構造体であろうと考え、「細胞」名称し「論文」という形で観察結果に記載し世界に公開する。そうすると世界中で同じような研究が始まり、次第に細胞には細胞小器官がある、とか核があるとか観察結果が蓄積されてくる。そうこうして知見がたまると、その分野でまとめが必要となるので先駆者の自分は、自分の発見だけでなく世界中に波及して見つかった事実をまとめ上げ「総説」という新しい学術書を作成し次の観察結果をまた得ていく。こうして、生物における「細胞」の意味を解き明かし細胞生物学という新しい分野の開拓者となる。

 

現在教科書や辞典に載っている説明は、時代とともにこの「総説」が蓄積し、おおよそ真実であろうとされる生命現象の写像と抽出を繰り返したものと言える。翻って、当時研究してきた人々は「細胞」の発見がどれくらい重要で、後世にどんな影響があるかよくわからないが、「細胞」には色々な機能があるし興味深い(平たく言えば面白い)から研究してみようとどんどん推し進めてきた結果、(偶然)細胞を理解した事になる。

 

わざわざ書き直した理由は、この知識だけを学ぶのが「勉強」であり、新しい生命現象のフロンティアを開拓していくのが「学問」なのである。なんとなくLive感のある研究の方がワクワクするストーリーに感じるような気もするのは、私だけであろうか。

 

話を具体化すると、

Q 細胞にとって重要な構成要素を5つ書きなさい。

A 核、細胞小器官、細胞骨格、細胞質、細胞膜     こちらは勉強

A うーん、そうですね今実験してるのでわかりません が、あと、2年後くらいを目処に論文にまとめられるとお思います。こちらは「学問」

 

となるわけである。

 

以上をまとめると、大学に入ると高校までに学んだ勉強の基礎(論文を読んだり、教科書を読んだり=答えのある問題を解く技術)を用いて、「学問」となる疑問を自ら立てなくてはならいのである。さらには、その疑問の重要性を社会に向けて発信しより良い社会を実現していくことがアカデミック研究の真骨頂であると思います。ここは本当に重要で、このトランジションができないと大学は楽しくないと感じてしまうわけだが、本当は自由で非常に楽しい知的な遊戯ができる場なのである。もちろん、バイトやサークル、恋愛も人生には大切で等閑にしてはいけないと思います。しかし、せっかく努力して大学に入学したのですから、少しでも学問の楽しさに触れられたらいいなと思っています。結論としては、この段落を理解してもらえれば、この記事の目標は達成です。

 

補遺:

「学問」的な問いの建て方は難しいのかと言われると、別にそうではない、と考えている。子供のような好奇心が重要だったり、冒頭に書いた教科書の知識を疑う猜疑心が重要だったりする。私が細胞で思いつく疑問を以下に書いておく。気になった方は研究してみてほしい。本当に教科書が書き換わることもあるし、ノーベル賞に繋がる可能性もあるが、外れる可能性もある。そこが研究の面白いところである。(すでに論文があったら申し訳ないが、考える澪標となればと期待する)

 

細胞にまつわる「学問」的な問い

1. なぜ核は常に中央にあるのだろうか?

核が真ん中にない変異体は取れないのだろうか?核が真ん中になければ不具合があるのか?がん細胞はどうなのだろう?また、細胞は移動するのだが、なぜ核の位置は保存されるのだろう

2. 細胞は自分の大きさが見えないのに、だいたい人間の身長は150-200cmにくらいになるのだろうか。

これは身長だけでなく、手の大きさなども同様でどうやって判断しているのだろう?

3. 細胞小器官の数はどのように規定されているのだろう。

例えばミトコンドリアがなくなってしまった細胞は存在するのだろうか?

 

などであるが、一般的には専門知識など不要で基本的であり誰でも思いつける質問が多い。しかし、実際には(常識と判断するなどの原因で)思いつかないこともしばしば。自分の頭でしっかりと考えてみれば生命現象にはわからないことだらけなので、自分を研究者になぞらえて、教科書に載っている図やを自分で取得したと仮定し、教科書に載っている解説を見る前に自分で「学問」的な問いを立て、自分で仮説を立てて生物学をより楽しんでほしい。その積み重ねが「勉強」から「学問」への橋渡しとなる。テストの点数を取っても大学までの人となってしまう。せっかく勉強したのだから学問も楽しんでほしい。

 

 

 

 

勉強と学問の違いをざっくりと

生物学の基礎 (1)

 

生物学を理解するために、初めの一歩目は「学問とは何か」を最初に考えて見ましょう。物事を考える上で一番大切なことは、良い回答をするのではなく「良質な問いを立てること」と言われています。ということで、本記事では以下の問いから初めてみましょう。

 

問い

高校の科目「生物」と大学の科目「生物学」の違いはなんでしょう?

 

大学では友人と過去問を駆使してテストを一夜漬けでなんとか乗り切った!などはよく聞く話であり実際に体験したことがある方も多いのではないかと思います。高校まではあんなに一生懸命に勉強していた人が、大学へ入学後急に目標を失ったように勉強をしなくなる、そんな状況があるかもしれません(A)。

 

なぜ勉強が難しくなったのか、それは「勉強」が難しくなったわけではなく、高校から大学に進学すると「勉強」から「学問」への構造に変化するからだと言えるでしょう。些細な変化に捉えられがちで、意識にも登らないかもしれませんが、高校の科目で例えば「生物」を学ぶと思いますが大学では「生物学」と呼ばれます。この「〇〇学」とは学問を示しており、高校の科目(勉強)とは全く別の構造体系を持ちます。

 

では、何が違うのか具体的に見て見ましょう。

勉強の最終目標は教育によって支えられており「特定の領域の知識を身に付けること」を目標にしています。一方で学問は「勉強で身につけた知識を生かし学問領域を広げていくこと」を目標にしています。換言すれば、勉強はそれ自体で完結していますが、学問は無限に広がる性格を持っています。違いは明白であり、高校から大学への勉強の遷移で面食らってしまい上述(A)のエピソードにつながると言えます。

 

なぜなら、大学からは自ら疑問を持って学問に望まなければならないからです。日本人はこの能力が著しく弱いと感じますが、今後AIが台頭する世の中で生き残るのに必要な能力につながると考えられます。以下に例をあげて見ましょう

 

彼は、textbook knowledgeはあるんだけど、学問はできないよね。

 

海外の友人の批判でよく聞くフレーズです。この例が示すように、残念ながら「勉強」で得られることは単なる知識であり、その上に学問を築いて行かなければなりません。この領域を広げていく行為が学問であり教育とは一線を画します。そのため、大学・大学院が教育機関と見誤り教育してくれないと(課題を与えてもらえない)と勘違いし絶望する学生もあとを絶ちません。ここら辺は高校でも教育していただきたいと考えています。中途半端に勉強ができても今後は知のコモディティ化が加速しますから、テストで点数が取れても将来活躍しづらくなる世の中に変化していくと感じます。そのため、大学は今後ますます重要な人類文化創造の拠点と言えるでしょう。

 

話が逸れましたが、 問いの回答を示して見ましょう。

 

答え

(知識を使い) 生物の謎を解き明かし続けること

 

これが、学問としての最終目標であり研究者冥利に繋がります。この答えは大切な事実を指し示します。それは研究者は実験をしている人を指す訳ではなく学問を広げている人を指すということです。そして、大学での教育は学問を広げられる人を創出することにあると考えます。すなわち、生物学ひいては学問全般は思考そのものなのです

 

もしサイエンティスト(科学者)になりたいならにはこの違いを身を以て経験し、自分が自分の言葉で理解することが必要になります。そして、一番のカンフル剤は勉強をするのが好きなことに加え、知的好奇心が強く、身近な「なぜ?」に正面から立ち向かうことが好きな人が向いています。もちろん、テストの点数が取れることは前提として必要になります。

 

補足

では、数学の言葉で書いて見ましょう

 

学問  = 知識 + 先端研究

勉強  = 知識

 

スッキリです笑

なんでも式にしてみると面白いですね。では先端研究がどう行われているのか

次回から考えて生きたいと思います。

 

 

 

生物学を考える

いきなりですが「生物学とは?」と聞かれ一体何を思いますでしょうか?

 

一般的には植物を詳しく知っている人・薬を作っている人・お医者さん...と職業から類推する人が多いと思いますが、一方でやや専門的なことを学んでおり、細胞・タンパク質・遺伝子、などなど多くのことを思いつくのかと思います。実際に教授など生物学を仕事にされている方には、自分なりの哲学を答えに持っている方も多いと思います。

 

さて、この質問から何を言いたいのかと言いますと、自分が理解している・使っている単語一つにおいても自分の人生から得た体験や人生観が自ずと反映され、上述のように答えが変わってくるという点です。(A)

 

現在、博士後期課程やポスドク(通称アカデミア)にまつわる状況は(家計の経済的にも)よくないというマイナスイメージの強い報道やブログ記事などが見られます。その一方で、「大学の基礎研究にはお金も人も不足し日本が強みとしていた技術立国の地位が脅かされる」・「将来日本からノーベル賞が出なくなる」といった報道や子供のなりたい職業ランキングで科学者が上位に来ているなど多くのニュースを見たことがある方も多いと思います。(B)

 

さて、(A)の段落を踏まえて(B)を見直して見てください。自分が把握している言葉の意味は、実際に体験したことよりも本・インターネットサイト(日経・Wikipediaなど)・ニュースなどから間接的に得た情報に強くバイアスがかかり、実際の認識と現状がずれている可能性も考えられます。では、少しは実際に生物学を研究をしている私の答えはと言いますと、「生物学とは思考そのもの」ということができるでしょう。そして、この定義を持ってアカデミアの世界を見ても、一般的な回答よりも良い確度で批判ができると思います。しかし、このことを理解するのはとても難しく、興味がある人でも例えば5年は真面目に研究活動を自分でしないといけないかもしれません。

 

そこで、(ざっくりですが)生物学ひいてはアカデミアとはなんなのか?、若輩者ですがこのブログで書き記し多くの方に「なぜ基礎研究をしているのか」・「研究とはなんなのか」をお伝えできたらなと思い文章化を目指しています。特に、アカデミアはビジネスではありませんのでビジネスを専門している方、そしてコンサルティングなどを行なっている方からは実態を正確に捉えられないかもしれません。しかし時代も変わり、アカデミはアカデミアだからという理由で旧態依然でいいのかと言われたら私はそうではないと思っています。そこで、私の最終目標としてアカデミアの存在価値を最大化し社会とシナジー効果を持たせたいと考えています。

 

最後に、私が学部時代によく眺めていたブログに「有機化学美術館」・「EMANの物理学」というそれぞれ有機化学・物理学に対するビジュアルエイドの良いサイトがありました。では生物学はどうでしょうか?というと私が把握している限り見つかりません。生物学の本質を捉えるためにもわかりやすく書き記し、一人でも多くの方(特に若い方に)に興味を持ってもらいたいと思っております。基礎研究がより盛んになることを目指してブログの筆を進めたいと思っています。

 

補注

日本はプログラミング後進国と言われています。

関数とはとても便利ですから、ブログの内容もかけるなら数式にしていかに示しておきます。数学がよくわからない人の助けになればいいなと思います。

 

(A)に関しては 

言語関数(引数に単語や文章)を定義して見ましょう。

 

言語(引数) = 定義 (range : dictionary) ・・・(#)

(wikipedia大辞林などはこのようにしておいていいと思います)

 

試しにdatabaseをwipipediaにして生物学を引いてみると

 

言語(生物学) = 生物学(せいぶつがく、biologybiologia[1])とは、生命現象を研究する、自然科学の一分野である[2]。広義には医学農学など応用科学総合科学も含み[要出典]、狭義には基礎科学理学)の部分を指す[要出典]。一般的には後者の意味で用いられることが多い。類義語として生命科学生物科学がある(後述の#「生物学」と「生命科学」参照)。

 

となるわけですね。

 

さて人間はというと、上述のように答える人はほとんどいないように思います。そこで(#)は以下のようであると考えられます。

 

言語(単語) = 定義 + 自分の獲得情報 + 外部知識     ・・・(##)

 

 

このように言語関数のとりうる解は、人間の脳や時代によって体の拡大がおきます。

人間経験したことはすべ人生に役立ちますから(実感ベースで申し訳ないです)

 

Σ言語human > Σ言語dictionary

 

が成り立ちます。辞書的な意味の単語で張る言語空間はとても小さく、説得力が低いことになりますが、一方でばらつきという意味では人の世界の方が大きくなります。そこで、なんとか規格化できる関数で割り評価できるようにしたいのですがアカデミアに対してはほとんど見受けられないのでこのブログで挑戦しています。

 

そして、この関数の面白いところは、ある本に関してこの関数を適応して見たとしましょう。

 

Σ(本) = Σ(定義) + Σ(自分の獲得情報) + Σ(外部知識)

 

と和を分解できます。この時

a ) Σ(定義) + Σ(外部知識)  >> Σ(自分の獲得情報) 

という本は新聞かwikipediaなどか、通ぶっている本かもしれませんね。

b ) Σ(本) = Σ(外部知識)

いわゆる剽窃か、あんまり中身のないほんということでしょうか

c)Σ(本) =  Σ(自分の獲得情報)

これは読んで難しい本だと思います。例えば剣術の心得がないのに「五輪の書」(宮本武蔵著)を読んで理解しようと試みても、道を極めることの難しさを(一般向けに)説いた「地の書」は理解できるかもしれませんが、指南書の「水の書」以降は難しいのかもしれません。しかし、先人が学んできたとても大切なことが書いてある本で、年月が過ぎた後に読みかえすと思わぬ宝物があるかもしれません。例えば、岩波文庫の「五輪の書」の解説には、同じく能楽の道を極めた世阿弥の書(花伝書または風姿花伝)の単語の意味から引用されている部分もあります。物事を正しく理解するには多くのことを自分で経験し、自分の道を生きることが必要だと暗示しているのかもしれません。

 

 

このブログでは

Σ(ブログ) =  Σ(自分の獲得情報)

になりがちですが、なんとか一般的に理解ができるように工夫して伝えたいと思っています。